東洋医学的脳死考あるいは君主の官について

脳が指令を送るから心臓が動くのか、心臓が血液を送るから脳が働くのか、相互依存の関係でありどちらが上とはいえない。けれど脳が死んでも生命維持装置をつければ心臓は働き続けることが出来る。逆に心臓が止まってしまってはどのような処置を施しても脳が働くことはもうない。誰が見ても心臓死は個体の死なのだ。では脳死は個体の死とみなせるのか。

東洋医学においては気血が全身を巡ることが生命の源とされる。そして12の臓腑に気血が巡りそれぞれが働きあうことにより生命活動が維持されているのだ。しかし東洋ではその中に脳という概念はない。では物事を考え人の個性を形作るのはどこか? それは心臓である。古書にいわく「心は生の本、神の変なり」また「心は君主の官なり、神明これより出ず」。神は人間の生命にもっとも重要で、知覚・記憶・思考・意識・判断などの精神活動を支配し、また12臓腑がバランスをとって活動するのを司る。すなわち意識下。無意識下すべての活動を統括しているのでもしその働きが無いと死ぬ。その神を蔵する心は臓器の中でも最高の地位を保持している。神が安定していると状況に応じた的確な行動ができ生体機能も健全に維持される。ところが過労・不摂生・外的要因などで心に負担がかかると神が不安定になり精神的、自律的な活動がうまく適応しなくなる。

どうやら東洋の古人のいう神が現代科学で脳に相当するもののようだが、それは実態のあるものとは見ていなかったようだ。実体はあくまで心という臓器とその中に流れる血だけなのである。血によって神は全身に運ばれてゆき常にそれを拍出させる心こそがすべての臓器の上に君臨するものとしたのだろう。心あってこそ神は働くのである。そうなると人の死とは東洋医学的にはどういうことか。ここまで考えればもうお分かりであろう。心が動かなくなった時である。それにより神は働かなくなりすべての生命活動は停止する。先に神が働かずに心が止まるのではない。

東洋の古代人が12臓腑の働きだけですべての生命活動を説明しようとしたのを無知として笑えるだろうか。養老孟司氏は「唯脳論」で人間のすべての行動は脳がイメージしたものの具現化であるとしているが、その言い方を借りれば古代人の考えは「唯心論」(現代的な意味合いとは少しずれるが、字面上はこう書くしかない)であると言えるだろう。脳に重きをおかずとも心臓がいかに重要な働きをしていたかをあるいは我々より強く認識していたのかもしれない。

現代的に解釈すれば、脳が死んでたとえ機器の力を借りたとしても心臓が自律的に拍動を続けているのであればそれは生命の根本を維持していることを意味する。弱弱しくもその手首に脈を触れるのであればその脈状を読み何とかしてやりたいと思うのが東洋医学の徒を任ずる者のスピリットである。その状態に安易に死と判断するのは尚早と思う。というわけですでに臓器移植法が施行され脳死患者からの臓器移植が合法とされる世とはなってしまったけど、我々の業の者はいまだ時流に阿るのを潔しとはできないはずである。