虚実は相反する概念か?

東洋医学で病証を表す言葉に虚と実があり反対語として捉えられてきたがどうも最近そうともいえないように思えてきた。手元の医道の日本社鍼灸医学辞典」によると
虚==生体機能が衰えた状態。外邪におかされて体力が弱ったり、久病で衰弱したときの状態がこれにあたる(略)
実==虚と相対的な病証の概念で、体力が充実し病気に対する反応が強く、気血が充実した旺盛な状態をいう。(略)
そして虚すれば補し、実すれば寫すると繰り返し教え込まれた。初心者のうちはそうなのかと深く考えもせずその通りしていた。虚は気そのものが弱まり流れが滞り動きが悪くなることでそれに勢いをつけてやるために補の治療というのは理解できる。問題は実のほうである。上の実の説明で見るとこれは健康な状態とみてよさそうである。健康な体にあえて寫する必要があるのだろうかと疑問がわいた。 

「虚実」の対立は「病気と健康」と同じ概念ではない。虚も実もともに病証なのである。だから私は上の実の説明には異論がある。実とは何かが余分に存在してそれが障害となっている状態と考えた方が納得しやすい。では何かとは何か?気血が余分な状態というのは考えられるだろうか。呼吸が荒い、血圧が高い、脈拍が速い、体温が高いなどという状態が想起されるだろう。しかしこれらは気血そのものの質的変化なのではなく内因または外因により体内に発生した邪気が正気の働きを脅かし表面的に機能亢進しているように見えるものと考えられ、実とはすなわち邪気が余分に存在している状態であろう。(栄養過多、ウイルス、細菌、異種タンパク、ガン細胞など)。だから実とて気血が充実しているわけではなく放っておいたら弱っていくものなのだ。邪気を取り除いていくという意味で寫の治療が必要であろう。だがそれは西洋医学が得意とするところだ。われわれ東洋医学の徒は気血の流れを整えることこそが本領であるから、実証であっても気血に対しては補の治療をすべきことは多いと思えるのが実感だ。特に肝実では足先、肺実では手に補の治療が必須とすら思える。

以上から虚と実というのは気血における不足と過剰という関係ではなく、対立概念と捉えるべきではないとご理解いただけるであろう。