紫電改のタカ

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昭和30年代後半になっても少年雑誌に戦争モノ漫画が載っていた。身の回りの大人が第二次大戦の記憶を語ることが多かったしその現場に居合わせなかった子供でもどのような時代だったか思い描くことは出来たしその当時の世相はまだ戦争を引きずっている延長上にあったといっても可笑しくなかった。だから戦争モノ漫画を読むことに違和感を感じなかった。それは平和主義への反動などというイデオロギー性は含まれていなかったと断言できる。この作品が載っていた少年マガジンにはアメリカのGIの活動、最新兵器の図解などが巻頭グラビアに度々載っていた。それらを何に対して使うのかということまでは書いていなかった。ただかっこよさだけを強調していた。もしミサイルをソ連や中国に向けて発射準備しているとかベトコンの潜んでいるような森林に火炎放射器を放つなどと書いたら少年達はついてこなかったと思う。それらの国ぐにに対して教育で悪くは教えていなかったからである。現在の中国や韓国の「愛国」「反日」教育が恐いのはまずはじめに日本悪い国というテーゼありきでそこに軍事的記述を乗せれば簡単に反日感情を高めて武器の使用を是とする国民性が敷衍することだ。武器や軍事を平和主義への脅威などと短絡してはならない。それらが平和を揺るがすのは仮想敵という強い思い込みが理性を上回った時だけだ。

 

話が重くなったので紫電改のタカに戻す。1963年から65年の間少年マガジンに載っていた。私が初めて出会ったちばてつやの作品である。たまたま戦争をモチーフとした作品というだけでちばが戦争礼賛者だなどとはまったく思わなかった。滝城太郎1飛曹の戦果、知恵に目を見張った。ちば作品ではこの紫電改からそのあとに続く「ハリスの旋風」「あしたのジョー」「おれは鉄平」など少しはみ出し者のヒーローというのがよく主題になる。一人勝手な行動をとって後で上役に叱られてもそれを平気で聞き流し踏まれてもすぐに立ち上がる野放図さが必ず出てくる。またそのような人物なのに可憐なヒロインに頭が上がらない(この作品において信ちゃん)、妙に純情なところがある。ちばのヒーローの美学が出ているのかもしれない。読者の少年にしてみれば小うるさい大人をギャフンと言わせるところに共感を持つのだろう。しかし滝は本気で上官を侮っているのではない。最初の方で他の隊員達が上官白根少佐の練習方法に不満を言い合っているところで自分の隊長の陰口をきくことをたしなめている。上官が立派な人間であることを認めたうえでその上官の言うことにそむいて勝手な行動をとるのは彼なりに上官に認めてもらいたいという承認願望なのであろう。これもある意味純情な動機である。ワタシ的には「枠から外れていながらかっこよさを漂わせる主人公の面白さを最初に教えてくれた漫画」といえる