銀閣寺考

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京都人の京都知らず。日ごろ京都市内の有名な社寺に行くことなど滅多にない。よその人から見るといいところに住んでいるのにもったいないなどと言われるのだが、金を払ってまで見に行きたい場所ではない。住んでいる京都と観光地の京都は別物なのだ。しかし先日遠方から我が家を訪ねてきた客人があって彼の観光に同行した。いくつかの社寺を回ったがその一つ銀閣寺を見て感じたことを記す。

 

銀閣寺を訪れる観光客の多くは金閣寺との対比を試みようとしてきたのだろう。だからまず先に金閣寺を訪れてからこちらへ来るパターンが多いように思われる。金箔を張り詰めた金閣寺の華麗さと同様銀を張り詰めた建物を想像してくることだろう。ところが来てみると建っているのは木目もそのままのただの木造家屋である。近くから見ると荒れ家のようにしか見えない。この寺で感動よりは小さな幻滅を感じる人が少なくないことであろう。

 

1482年というからコロンブスが新大陸を発見する10年前に足利8代将軍義政が建てたものである。義政がその祖父3代将軍義満の北山に建てた別荘金閣寺を倣って東山に別荘を建てたのがこれである。血族の中で用途や建築様式が同じものを作るのだから似たようなものができて当然。それに室町幕府最盛期である義満の頃より将軍の権力は弱体化したためか規模が金閣寺よりは一回り小さくなった。当初銀箔を貼る構想もあったが予算不足でやめたとか。このように最初からキッチュな性格を背負わされた運命は金閣寺あっての銀閣寺という存在に甘んじさせたように思える。

 

華麗な金閣寺に代表される北山文化に対して枯淡な銀閣寺は東山文化の代表と称されるが、それはどうも後で取ってつけたような見解に思える。これを建てた義政だって政治の混乱そっちのけで贅の限りを尽くした奢侈生活に溺れていたのだから、本心ではその祖父義満と同じような豪華な建築を望んでいたのだろう。だが彼の治世の頃には幕府の財政は傾きやがて戦乱の世となっていきもはや別荘建設どころではなかった。枯淡な落ち着いた文化が広まっているなら血なまぐさい応仁の乱などが始まるだろうか。銀閣寺の様式が文化だというのは第二次大戦前の抑圧と窮乏の生活が文化だと言っているに等しい。よって東山文化というのは実在しなかったのではないか。

 

銀閣寺は入り口から境内に入ると①のように間近に建物が見えるがこれがどうも痛々しく目に映るのだ。これをして侘びだ寂びだという風流人もおられようが俗人には「しょぼい」というのが普通な感覚ではないだろうか。そこから庭園を歩き少し離れて池越しに建物を見ると②のようになり綺麗な見栄えする景観と認識される。それとて水を引いてある以上枯れ山水とは言えず、貴族文化の模倣に映る。要するに建築様式というのは眺める場所からいかようにも解釈できる脆さがあるのではないか。何十年ぶりかで見た銀閣寺の傍でそんなことを感じた。