オバタリアン

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表題名は今でも妙に元気よくてあつかましくてちょっとこわいおばさんを揶揄する言葉として使われている。私としてはこれをテーマに話をすすめるのはいささかためらいがある。決してそのような人たちのことをよく知っているわけではないので自分のイメージだけで論証することになりそうだからである。けれどもおばさんたちの横のつながりの強さに私一人が割って入っていくのは相当な心構えが必要になる。昔ほど地域社会の中で絶大な権力をもつことができなくなっている男性としては地域の細かいことにこだわってはこなかった。地域のことにさまざまなルールを細かく作ってこだわっていたのは女性たち。ごみの出し方がどうとか誰が外で挨拶もしないとかどこの店の魚の鮮度が悪いとか地域になじんでない男性にとってどうでもいいことに話が延々と続き「もうかんべんしてくれよ」と根負けしてしまうのである。オバタリアンが出現したのではなく男性が気が弱くなってきたのかもしれない。オバタリアンというのはあくまで男性から見た地域の横社会にいる女性のことである。女性が他の女性をオバタリアンということはない。ただ男性として十把一からげに言っている嫌いがある。一定年齢以上の女はみんなそうなんだ、どうでもいい話を延々と続け十円二十円のことで文句をいい容易に引き下がらない、という概念を男性だけが持っている。だからオバタリアンという呼称は総体的なもので特定の個人に対してのものではない。だからある女性が男性に自嘲的に「私みたいなオバタリアンが相手ででごめんなさい」などという言われ方をされると「いえいえとんでもない」などと否定して見せるのだ。内心「この女、ちょっとはしおらしいところがあるな」などと考えてそこにオバタリアンの姿は見えていないのだ。男性がオバタリアンを認めるのはたとえばバスの出口で数人分の運賃をまとめて払おうとして時間がかかっていたり、少しすいている座席を見つけて我が物顔にあなたはここ私はそこと仕切って見せたり、女性トイレが長い行列ができているとき男子の大の所へなだれ込んできたりしてきたときにその全体に対して思うのだ。堀田かつひこの漫画は小畑さんという人物を想定しているがそれは必ずしもすべてに当てはまるものではないだろう。個々にみれば韓流ブームで追っかけする人あり、エステでダイエットに励む人あり、、文化サークルで自分を磨く人あり、はたまたグルメ追求の旅行に出かける人ありで、その動機が決して顰蹙を買うものではない。それがどうしたものか3人以上のグループになると傍若無人の図太い団体になるのだ。それが不思議で漫画になったと私は思う。 
って、やはり私一人のイメージだけで話を進めてしまったような…。何か間違ってたらお許しくださいませ!