阪神大震災の頃

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連休が明けてもう正月気分もおわりという日の未明にそのときはやってきた。どこからともなく地鳴りのような音が聞こえたかと思うと間も無く今まで体験したことのないような下から突き上げるような強い揺れ。天井に吊るした電灯が激しく揺れて落ちそうだった。とっさに押さえつけてとめたが立っていても尻餅を着きそうだった。約1分間揺れは続いた。明かりとTVをつけて停電してはいないことを確認した。しかしTVのニュースによると神戸方面が大変なことになっているらしい。震度7の強震で町は壊滅状態、完全に崩壊した生田神社の山門が映し出されていた。この京都でも震度4だった。気がつくと隣室の本棚の本が何冊も床に散らかっていた。夜が明けて間もない7時半ごろにもう一度余震が来た。阪神地区の大変な日々の始まりだった。その日はJR、阪急、阪神とも全線ストップ。走れる状態ではなかった。

 

それから約2ヵ月後、現地に足を踏み入れる機会があった。まだまだ震災の爪あとは多く残っていて各鉄道とも不通区間があり大阪からダイレクトに神戸へは行けなかった。3月19日の日曜日、私は数人の同業の友人達とボランティア活動に行くことにした。私たちが出来ることは…、被災者の方へのマッサージ。阪急梅田で集合し神戸線で被災地へ向かうことに。しかし同線は西宮北口~夙川間の落盤のため全列車西宮北口止まりだった。普段は見ない西宮北口行き特急に乗る①.聞けば北口駅に隣接する阪急西宮車庫では浴室などの一部の職員施設を被災者に開放しているとか。それなら同駅周辺にだって住まいを離れて避難生活を送っている人も多いことだろう。そんなわけで北口駅で降りてボランティアの斡旋窓口を探した。そこで派遣先を紹介してもらいそちらへ向かった。その道では倒壊、変形した建物、瓦礫の山、押しつぶされた自動車、公園内に建てられた四角四面な仮設住宅などが目に入ってきた。まるで別世界を彷徨っているようだった。生涯にそう見ることの出来ない光景だったが、カメラに収める気持ちには流石になれなかった。ついたところは駅の西側にある小学校の体育館。住処を失った数十人の高齢者の方が避難生活を送っておられた。治療する前にここの管理人の方から注意を受けた。「被災者の方に被害の状況をあまり詳しく聞こうとしないこと。家族や知人を失った方もおられるのでそういう話にナーバスになられるから」ということだった。館内でマッサージどうですかと声をかけて歩いて周り呼び止められたら治療した。腰が疲れたとか首が凝るという訴えが多かった。まだ寒いのに体育館の床で寝泊りでは体にこたえるだろう。当り障りのない話をしながら治療したがする方も受ける方も何となく緊張して完全にはほぐれにくいものを感じ取った。それでも2時間ほどの間に5,6人しただろうか。皆さん住んだらお礼を言って下さった。充足感のある心地よい疲れを感じた。癒されたのはあるいはこちらのほうだったのかもしれない。駅までの帰り道線路際を通ったら確かに線路が崩落して途切れていた②。復旧するにはまだ数ヶ月かかるようだった。

 

阪急神戸線が完全に復旧したのはそれからさらに3ヶ月後の6月だった。それから町並みの復旧も急ピッチだった。一年も経つと新しい家並みが出来て人々は落ち着ける住処へと帰っていった。治療した被災者のその後は知るよしもない。しかし今も阪急で西宮北口付近を通るとあの日のことが思い出されるのである。