2004年・廃止迫った急行だいせん

いまや全国で片手で数えられるほどになったJRの急行列車。鉄道ファンには「急行」の二文字は魅惑を誘う響きであるが一般には特急より格落ちというネガティブなイメージしかないのであろうか。急行の利用率は次第に低くなりそして廃止というパターンが続出した。このだいせんも戦後山陰線の看板列車として50年以上走り続けひところには昼行、夜行合わせて4往復が山陰路を行き交ったこともあったが、3年前利用率の低迷を理由にあっさり廃止になってしまった。最盛期は客車11両編成で寝台やグリーン車も連結され、自由席車はミニ・ワイド周遊券が発売されていた頃はいつも盛況だった。最後は夜行の気動車2両で指定席自由席各1両と言う寂しい編成だった。とはいえ車両はエーデル鳥取に使用されていたキハ65のグレードアップ車で居住性は悪くなかった。

 

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①大阪入線 

由緒ある列車だけに子どもの頃からその存在は知っていていつかは乗りたいと思っていたのだが、ついぞ乗る機会に恵まれず、実現したのは結局廃止の日が迫った3年前の10月だった。すでに廃止は新聞などで知られていたので切符の入手は難しいかもと思ったが何とか取って旅したいと思った。実はこの時期に本来のだいせんとは別に「懐かしのだいせん」という臨時列車が客車5両で運行されることになっていてそちらの人気が高まっていた。私もそちらの方に乗りたくて近所の旅行社に切符の手配を頼みに行った時第1希望を「懐かしのだいせん」第2希望を「だいせん」としたのだが「懐かし…」の方は売り出してすぐ完売となって私は入手できなかった。本来のだいせんは難なく買えた。まあよしとしよう。

 

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②入り口の行き先標と列車種別標 以上2004.10.9

当日…、息子と2人連れ。 だいせんは大阪発。京都の人間が山陰方面への旅行は京都から山陰線に乗るのが普通なので何か違う方向へ行くような気になった。やってきただいせんは案の定キハ65だったがその日は4連だった。両エンドとも展望車になっていた。流石にその部分は全席埋まっていたがそれ以外は乗車率は6割程度か。廃止前にしてこんなものとはやや拍子抜け。指定は3号車11番A、Bだった。C、D側は誰も乗ってこない。途中から乗って来るかもしれないと思っていたが福知山を過ぎても空いたままなので2人分かれて座った。車掌は回ってくるが何も言わない。福知山では長い停車時間でホームに出てみた。かつてはここで京都発の夜行普通「山陰」と相互連絡していたものだが山陰はすでになくなって20年近く経つ。10月にもなると深夜は冷え込んでいて車内に戻る。あとは所在無くうとうとしてしまった。眼がさめたら浜坂で餘部鉄橋は見届けそこなった。鳥取県に入ると車窓が砂っぽく見えてくる。しかし海が見えることもない。確かに山陰の風光明媚なところを夜行で走るのは少し惜しいなとぼんやりした頭で思った。倉吉からは快速となりこまめに停まり出す。けれど指定席には乗客が乗ってくるわけではない。何しろ全線乗っても350㎞余で急いでも米子には早すぎる。ゆっくり走っても米子着5時42分である。定時に米子着。しかし3分の連絡で普通松江行きが発車する。降りたホームで名残を惜しむ暇もなく米子を後にした。これに乗って松江で停車しているはずの「懐かしの」を見てさらにそこから「スーパーまつかぜ」で出雲市まで飛んで入線してくる「懐かしの」を待ち伏せるのだ。夜明けにうとうとできないぞ。

 

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出雲市に到着した懐かしのだいせん後部 2004.10.10