近鉄モ8459物語

金剛山からの帰りは近鉄を利用した。河内長野線→南大阪線橿原線京都線とたどる。

 

橿原神宮前ではちょうど京都行きの急行が待っていた。8400系の6連だったが少し珍しい3連×2の編成だった。普段は3連単独で田原本線などで使われることが多いのだが多客時の応援だろうか。そのうちの一つは8409Fだった。この編成の中間に挟まるモ8459は面白い経歴を持つ。

 

イメージ 1

 

この車輌両隣の先頭車と屋根の高さが揃っておらず少し高い。そして京都寄り連結面は丸みを帯びていてしかも側窓が2連ではなく1個づつ独立している。明らかに先頭車を改造したものであることを伺わせる。

 

イメージ 2

 

1966年3月、元々は8400系の先行系列8000系の初期グループの一員として作られ当初
モ8059+ク8559
の2連のク8559として登場した。つまり制御付随車である。
ところが1972年8月2日奈良線を走行中爆破事件に遭遇し被災した。車輌は証拠品として保管され編成を解かれたまま長らく留置されていた。しかし犯人不明の未解決のまま迷宮入り。
そして1976年、復帰するに当たり方向転換、中間電動車化という改造を受けて当時製造が続いていた8400系に編入されて当初2連だった8409+8309に挟まれることとなった。8000系初期車と8400系では屋上に搭載した換気装置が違うため屋根の形状、高さが異なるのが際立つ編成となった。その後どの車輌も同様な冷房化改造を受けて当初ほど目立たなくなったが、それでも8000系初期車特有のベンチレターは一部残された。
なお、相棒だったモ8059の方も復帰したがこちらも中間車化されたのは同じだが逆に電動車から付随車になりサ8167として8000系後期車に組み入れられた。
年月は流れて幾星霜、いくつもの新形式が現れ8000系も8400系ももはや古参車の部類に入ることとなった。デビュー間もないころ奈良線で特急や快速急行に颯爽と走っていたのも昔、今や田原本線などでワンマン運転によるローカル運用に着くことが多くなった昨今である。

 

8000系初期グループはすでに無く1960年代生まれの車輌は近鉄全体でももう数えるほどしか残っていない。70年以降に生まれた8000系後期車も8400系もそう遠くなく引退の日を迎えよう。そんな中でこの8459は8167とともに60年代製8000系初期車のフォルムを伝える最後の生き残りになった。彼らがもし爆破事件に遭遇していなければ他の仲間と同じくすでに過去帳入りしていたはずである。人生(車生?)何がきっかけで長生きするものかわからぬものである。今回久々に本線運用を見て乗ることが出来「がんばれよ」と声をかけたくなった体験であった。

 

 

写真2009.4.12撮