国鉄赤谷線

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赤谷という地名から想像がつくがここらは土地が赤みを帯びていてかつて鉄鉱石も取れたという。他に石灰石も採取されていた。国鉄赤谷線はすでに大正時代に新発田~赤谷間が開業していたが、戦中の国策でそれらの鉱産物の運搬のために一つ先の東赤谷まで延長された。しかし昭和40年代には鉱山は閉山され、主目的を失った同線は第一次廃止対象赤字路線となり昭和59年3月末で廃止となった。最後まで全線未電化単線の路線だった。その前年の5月、新潟旅行の際にここも訪れている。しかし列車には乗っていない。一日5往復程度朝夕にしか走らないので昼の手ごろな時間帯には乗れなかったのだ。仕方なくレンタカーを借りて路線沿いの道を走り各駅を訪れた。新発田から分かれた路線は大きく迂回して次の五十公野(いじみの)に至りそこからほぼ直線に東南に向かう。路線のほぼ中間にあたる米倉までは平野の穀倉地帯の中を通るが、米倉駅で越後富士と呼ばれる(と言っても低い山である)臼ケ森山を眺めてからは次第に勾配区間となる。そして赤谷駅に至るがここから終点東赤谷駅までは急勾配となる。東赤谷構内の手前に最後の難所スイッチバックがあってどの列車もこれを通って入線した。東赤谷には鉱山の入り口があるが他には何も無いところ。鉄道はここで終わりだが道路はかつての街道で会津を目指してこの先も続いている。車でさらに進むと阿賀野川沿い磐越西線咲花付近に出た。
(徳勹惺銃癲)気妨えているのが臼ケ森山。有人駅で全く列車の来ない時間帯だが駅員が一人執務していた。 東赤谷下手からスイッチバックを望む。赤谷から左手に登って来た列車はさらに約300mほど進んで後逆行して右側の構内線に進入する。画面の中央あたりが構内である。E貔崔駅舎 ここも有人駅だった。見回しても私以外の人影はなし。
いずれも昭和58年5月2日撮影