能登地方への距離感

1975年12月号 湖西線北陸本線下り

1975年12月号 七尾線能登線下り

この度の能登地方への地震で被災された方へお見舞い申し上げます。

早急な支援が求められますが交通網インフラの損壊がこれを遅らせていることが気になっています。今回は大きな難を免れた関西人から見て能登半島の先端になる珠洲市でも距離的には東京よりは近いですがはるかに遠く感じてしまいます。その理由の一つが大阪京都から一本の交通機関で直行できないこと。平常時でも金沢まではJR特急でそこから長距離バスで行くのが最短になりますがこの3月には北陸新幹線敦賀開業により関西からはここでの乗り換えも強いられることになります。幾分かは所要時間の短縮になるのかもしれませんが、乗り換え回数が増えるのは心理的距離感が増えるように思います。できれば一本の列車で行きたい。

 

ここで手元に現存する日本交通公社(現JTB)時刻表1975年12月号を開けてみましょう。大阪から北陸方面へのページを見ると様々な列車がひしめき合っています。その中に大阪1006発気動車急行越後・ゆのくに1号という列車があります。新潟行き越後と輪島・珠洲行きゆのくにが金沢まで2列車併結になっていて金沢で別れたゆのくには穴水でさらに輪島行きと珠洲行きに分かれて終点を目指します。大阪から輪島はほぼ8時間、珠洲へは8時間40分もかかっています。現在の列車バス利用より長い乗車時間は決して楽な旅ではなかったかもしれません。しかしこの列車に乗って行けば目的地に間違いなく着けるという安心感とレールによる繋がりの持たせる親近感がありました。そして大阪からの直通客はもちろん七尾能登線内では中核的な駅にもこまめに停車するので地域内乗車にも利用できます。その列車内では異地域の人間の間での会話が起こり交流が生まれるという機会もありました。今のJRの新幹線や特急列車は乗客の分別が進んで地域間の交流が生まれにくく目的地への迅速な到達ばかりが求められる気がします。

 

この文章のはじめに早急な支援が必要なことを書きました。今求められることは目的地への迅速な到達に他なりません。往年の鉄道が迅速であったとは言えませんがもはや能登半島では穴水から先の路線はなくなってしまい我々が一本で行く術はなくなりました。残っていたとしてもこの地震で被災して運休になったでしょう。それでも大切なことは被災地域への心理的な親近感と繋がりでしょう。あの頃にはお互いの地域の人間がそれぞれレールで繋がる親近感・一体感が持っていたのではないでしょうか?