赤塚不二夫氏死去に思う

今朝の新聞の1面記事は赤塚不二夫死去のニュースだった。私には「エッ!」と声をあげるほどインパクトのあるニュースだった。昨日のトップ記事は福田内閣改造であったが、その翌日にこんな記事が来るとは思っていなかった。故人は生前いたずらをするにもかなり本気で手の込んだことをやって周りを驚かせていたそうだから彼らしいといえば彼らしい。
とはいえ既に2002年に検査入院中に脳内出血を起こして意識が戻らないままずっと寝たきりの闘病生活が続いていたそうだから彼自身周りを驚かしたという実感はないままだったのだろう。

 

さて私を含めおよそ45歳以上の人間には「赤塚不二夫」の名はギャグ漫画の大家として記憶されている。おそ松君、もーれつア太郎、そして天才バカボンとシッチャカメッチャカなギャグの連続は当時の子供を夢中にさせた。「シェー」「ニャロメ」「これでいいのだ」などいくつもの流行語が彼の漫画から飛び出して世に広まった。もちろん大人たちはすぐには受け入れずにマユを潜めたが、それにもめげずに次から次へとギャグを生み出していく赤塚のパワーに次第に圧倒されたものだ。バカボンなどは大人向けの作品も作られてギャグ漫画のすべての世代への流入を方向付けた。谷岡ヤスジはらたいら黒鉄ヒロシなどがそれに続く。その種明かしをしよう。
60~70年代のある時期あちこちで闘争に明け暮れた頃があった。一つのテーゼに対するアンチテーゼが出されそれらの正否をめぐって日夜議論が続いた。が、ヘーゲルらのいう弁証法のごとく議論は止揚されることなく延々と続き終わりは見えなかった。やがてアンチテーゼを出す側の内紛が起こり粛清が始まっていく。これがインテリや知識人といわれる人たちが提示し予測した歴史認識であることに人々が疑義の目を向け始めた。それはシラケ、三無主義という言葉が広まりだした時でもある。そんなときバカボンのパパのようにとんでもないバカをやらかしては「これでいいのだ」といって済ませようとする姿は、もう小難しい屁理屈なしで楽しく生きたいという人々の心に響く物があったのだろう。今の「そんなのおれに関係ねえ~」と近いのかもしれない。ただ、赤塚自身はそんな大上段に構えて書いたわけではない。それまでだれも書かなかったようなバカを書いてみたかったというだけだろう。それをその時代受け入れた民衆が存在したということだ。

 

とまあ、ほぼ40年前の背景を眺めて書いてみたが、いかんせんその時期に生まれ出てない人たちにはまったくピンとこない話だろう。以前この書庫で天才バカボンを取り上げて私自身「古さを感じさせないギャグセンス」と書いたものだが、いただいたコメントではずいぶん昔の漫画という印象を持っておられる方が多いことを知らされた。結局はその時代を知る人たちの世相とリンクして存在するメモリアルとしての価値が最大のものであるとわかった。
赤塚不二夫」は若年層には初めて聞く名前だったのではないだろうか。故人に失礼を承知で言えばたまたまトップ記事扱いとなったのは運がよかったのだろう。運よく時流の中で流行漫画家となっていったのと同じように…。