南海本線大和川堤防

子どもの頃叔父からもらったリバーサルフィルムがある。「1964年南海大和川堤防」と説明があり、1521系と思われる3連の準急電車が走っている写真である①。
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これがどのへんか、そして今ここはどうなっているのか知りたいと思い現地へ出かけてみることにした。

 

南海は住之江と七道の間で大和川を渡り大阪市から堺市に入る。この写真は川の堤防から鉄橋を渡り終えた列車を後追いで撮ったと見られる。では川の北岸か南岸かどちらだろうか。何しろ40年以上前のことだから写真のままなのか確信はなく、すっかり様変わりしている可能性のほうが大きい。行く道新今宮の駅員さんに見てもらったが、この辺は今はずっと高架になっていてこのような草薮の所はないのでわからないとのこと。電車には準急の表示だけで行き先がないので上りか下りか分からない。もう少し細かく注視してみよう。手がかりになりそうなのは次の3点である。ⅰ.左端の信号機、ⅱ.電車後面右に見える短い煙突、ⅲ.電車の床下から僅かに見通せる民家の屋根瓦。これらは今もあるのだろうか?

 

普通電車で七道まで乗りここから川に向かって歩く。まず南岸にたどり着く。後追いを撮るなら南東角から和歌山方向へ向けて撮ることになる。この位置では今も築堤が盛り土で草がはえていて一見ここらしく思える。しかし写真のような直線ではなく七道駅に向かって大きく右にカーブしていく。線路の向こう側は大きな化学工場があり民家など見渡せない。工場は昔からある。第一、正午ころに着いたがこの場所は逆光になって撮影には不向きだ。どうやらこちら側ではなさそうだ。

 

線路から少し離れ道路橋を渡って再び大阪市に入り堤防沿いに歩き北西角に立ってみる。ここから難波方向を見渡す②。
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昔のような盛り土が広がってはおらずコンクリートで止められている。そして民家が間近にまで迫っている。これだけでもずいぶん感じが変わっている。しかし、左手に信号機がある。ただ3灯式が5灯式に変わっている。電車の床下から見えた民家の屋根の形に良く似た屋根が見える。ただ緑色の瓦である。葺き替えられたのだろうか。架線柱が昔にはなかった位置にもう一つ建てられたようだ。第一架線柱の形が昔とは違うのでそっくり取り替えられたのだろう。架線柱の間に三角の屋根が見えその向こうに小さく煙突が見える。時の流れに姿は変わってはいるがそれでも当時のよすがを残していてここだと確信した。

 

ラピートがその名に相応しく高速で走ってきたのを撮る③。
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叔父が撮ったのとほぼ同じアングルで撮ったつもりだがどうも収まりが悪い。あの煙突を入れようとすると架線柱が目障りになる。列車は昔に比べて長大になりこのスパンでは全車両が入りきらない。かつてここはお立ち台だったのだろうが今はそれほど好条件ではないようだ。

 

そこでやや西寄りにずれ右側の架線柱が入らないように立ってみた。こうするとあの煙突はかろうじて入れられるが架線柱とかぶりそうで分かりにくくなる。そこへやってきたのが元高野線用だった2扉車2000系を使った4連の普通列車である④。
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高野線急行用として颯爽と登場した17m級中型の新世代のズームカーだったが高野線ダイヤ改正極楽橋直通の急行が削減され余剰となって南海線にやってきた。20m級ばかりの南海線では収容力に問題があるのでもっぱら長距離の普通用とされているようだ。普通電車の輸送需要はこのくらいでも事足りるようだ。この列車ならうまく1編成レンズの中に収まった。グッドタイミング! 

 

実は電車の床下越しに線路向こうが見えるよう腰を低くして撮ったのだが、叔父のようには上手く撮れなかった。無念。

 

撮影後あの煙突のことが気になり近くまで行ってみることにした。見えた方向に向かって7~8分歩いていくと商店街の前に出る。そのたもとの建物の中からニョキッと突き出た短い煙突があった⑤。
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かなり年季の入ったものである。銭湯だった。その入り口はもう何十年も続いているような古めかしい門構えだった。

 

①以外2007.11.23撮