京阪宇治線車掌さんのいる風景 回顧編 その1

鉄道ファン誌1965年8月号の表紙である
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宇治線木幡付近を走る300形2連。撮影日は1962年7月22日とある。
物心付く前のことでこのような光景を私自身は知らない。
しかし1960年代初めに京大の宇治キャンパスへ京阪で通学していたという知人の話によると。
その頃の宇治線の電車は深緑一色で1両か2両で運転していた。2両連結でも前後の車両間は行き来できずそれぞれの車両に1人ずつ車掌が乗っていた。客用ドアが手動で駅に着くたびそれぞれの車掌は担当車両のドア開閉に走り回っていた…。
たぶんこの写真の300形、あるいは200形だったと思われる。この写真に車掌さんが写っているが前側の車両にももう一人乗務していたのだろう。その頃は現在に比べ輸送量は少なかったに関わらず車掌さんの数は多く労働量も多かった。

 

私が物心付いて宇治線沿線に居住するようになった時にはもう200形や300形などはなかったが500形や1000形が中間車を挟んで3連で走っていた。これらの編成は車内貫通していたし自動ドアだったので車掌さんは1人だった。しかし宇治線内でも頻繁に車内巡回をしに来た。というのはどの駅も現在のような自動出改札でなく駅員の手によっていたのだが、場合によっては切符未購入のまま乗車することもあった。そのような乗客は乗車後すみやかに車掌から車内補充券を購入することになっていた。車掌のほうも心得たもので発車間際に慌てて飛び乗ってくるような乗客は切符を持っていない可能性が高いと見てその乗客の乗った場所辺りまで巡回しに来るわけである。子供時代の私もよく車掌さんから買ったものだ。揺れる車内の中で券面に鋏を入れ小銭をやり取りする、それを車内放送の合間にしなければならない。ずいぶん大変だっただろうなあと思い返す。

 

やがてどこの駅も自動化されプリペイドカードやICカードの普及で車掌さんは車内補充券を発行しなくなった。それでも車掌さんは必要だと思っていた。ドア開閉や車内放送は車掌さんあってこそと思う。同じ内容を話すにしても声質、抑揚、テンポなどひとりひとり違っていて特徴のある人の声はなんとなく覚えてしまう。人間の所作であることに改めて安心したものだ。

 

ワンマン化に反対する理由などないし全く困ることもないのだが、長い間当たり前のことのように続いてきたものが思い出話になっていくのもセンチメンタルなことである。