やくもたつ…

  出雲 八重垣 妻篭みに 八重垣作る その八重垣を

と続くが、以来八雲立つは出雲の枕詞として定着した。スサノオは須賀の地にマイホームを建ててそれが完成したときに雲がむくむくと幾筋も立ち上がったのを見て自分の子孫繁栄を願ってこの歌を詠んだ。これが和歌の始まりとされている。出雲や八重垣は列車愛称からは消えたがやくもだけは今も走り続け随分子孫繁栄したものである。八重垣どころか1日15往復も岡山と出雲市の間を行き来している。

 

さて列車のやくもだが特急としても結構古い歴史を持っている。ただし1965年発足当初は新大阪~浜田間の運行で82系DCが使われた。すでに先に京都~福知山・山陰経由~博多までのまつかぜが走っており、その弟分のような存在だった。だがG車、食堂車も組んだ堂々たる編成だった。今ならまつかぜ1号、まつかぜ3号とでもするところである。実際後年まつかぜに揃えられた。
①82系DC時代
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家の書棚から出てきた古い写真。私が撮ったものではない。1967.12.25と裏に控えてあるのでおそらく山陰線特急時代のものだろう。撮影地は不明である。

 

転機が訪れたのは1972年3月の新幹線岡山開業で、これを機に伯備線経由の陰陽連絡特急が充実されることになりやくもの名はこちらに回された。これには181系DCが使われた。未電化時代岡山~出雲市は4時間近くかかりこのときも食堂車が連結された。
181系DC時代
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1981年頃、もらいものの写真で詳細不明

 

1982年伯備線電化によりやくもも電車化されることとなり振り子式の381系に生まれ変わった。大幅なスピードアップが図られたが、とうとう食堂車は連結されなくなった。以後ずっと381系は使われ続け編成の短縮があったが本数は増やされ続けJR化を迎えた。
③電車化当初の国鉄色381系EC
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JR化されてからも暫くは国鉄色のままで走っていた。中間車から改造されたクハは貫通扉がつけられていた。1990.2.12撮 出雲市にて

 

JR化当初はいわゆる国鉄特急色のままだったがその後塗り替えが進んだ。同じ381系でありながら紫主体のスーパーやくも色と緑主体の一般やくも色に分けられた。それで現在まで続いてきたが、本年先月のダイヤ改正にてスーパーやくもが廃止されすべてやくもに統一された。いずれ色も統一されるだろう。否そろそろ新形式への移行もあるのでないか。
スーパーやくも色。
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2005.10.10撮 宍道にて

 

⑤一般色やくも。
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2005.10.10撮 備中高梁にて