日本探見二泊三日

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久々に宮脇俊三作品を読んだ。彼が亡くなってすでに5年、決して新刊なのではないが読む機会を失していた。今にいたっても鉄道の絡んだ紀行文はこの人の右に出る者は現れていないと思う。

国鉄最長片道切符旅行という長旅を制覇した筆者にして今回は2泊3日程度の短い日程で出かけられるところへ行く。雑誌「旅」編集部からの依頼で書かれ同誌に連載された旅行記13編を単行本にしたものである。しかし彼は言う、「『旅』編集部を通じて旅館の予約をすると特別扱いされる虞があるので極力避けたい」。本書あとがきで宮脇は旅行を A,B,Cの3分類していてその中の一つに「観光客がそう多くなく荒らされていない。日本のよさが残されており静かなたびに浸ることが出来、交通の便も遜色ない」というもので、ここに書かれた各所はいずれもそれに準じたところだ。このような場所を訪れるときに現地の人に雑誌「旅」の名を出すのは水戸黄門の「葵の印籠」ほどの力があるのだろう。自然体の文を書くときにそのような物は全く不要である。

全体に平成2年頃書かれた記述で、今と同じ平成の世のことが書かれているのだがやはり隔世の感があると思う。
「雨の熊野古道を拝む」 事前に自ら旅館に電話で予約しようとしたがどこも断られる。先のような指針はあるのだがやむなく「旅」編集部の力を借りる。それでも日本のよさは残っていた。当日は雨、散策には不向きだが旅館の女将さんはじめ地元の人の暖かいもてなしを受ける。今熊野古道世界文化遺産に指定されてすっかり有名になった。ここに書いてあるような味わいは今もあるだろうか。「南淡路の明暗」や「四国お遍路やぶにらみ」だって明石鳴門大橋が開通した現在ずいぶん変わったことだろう。
「夕張今昔」 財政再建団体の適用を受けた自治体として有名になってしまった夕張市である。この文が書かれたときにもすでに同地の炭鉱はすべて閉山されていた。しかし当時の中田鉄二市長の「炭鉱から観光へ」の掛け声によっていくつもの観光施設が整備されて間もない頃だった。出会った市の職員の人の話からも意気込みが伝わってくる。その後日本はバブルが崩壊し坂道を転げ落ちるような失速をすることになり夕張の運命もそれに決定付けられた。作者は投宿したホテル裏手の飲食店街を散策するがどこかうら寂しい印象に将来への一抹の不安を感じていたのかもしれない。
やはり北海道「北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線」 北海道の旧国鉄線のうち赤字のローカル線はほとんど廃止になったが池北線144,0kmは地元の熱意で第三セクター化され存続することになった。そんな意気込み新たでしかもロマンを込めた名前の鉄道誕生をこの目で見ようと訪れる。新しい車両に高校生たちが乗り込んで前途ある光景と思わせるがすぐに降りていく。一時わずか5人の乗客になるがまた別の高校の生徒たちが乗り込んでくる。これといった観光地もなく極寒の地として知られているだけの沿線だが前途ある未来を次世代の若者に委ねたいという思いが伺える。…宮脇が世を去って3年後、彼や地元の期待もむなしく経営悪化に抗するべくもなくこの鉄道も消えてしまった。

さて、宮脇作品の面白みは鉄道に関する記述は無論であるが、少し怒気を含んだようだがきわめて平易な表現が笑えたり少し考えさせられるところにあると思う。
「田舎のバスでの話題は病人に関するものが多い」(雨の熊野古道を拝む)
「(客船の特等室で)嘔吐用の金盥も部屋の隅でうつぶせになっている」(豊後水道と日豊海岸の浦々)
マツタケ料理の宿の専務がそんなことを言ってよいのかと思うが、じっさいその通りである。マツタケに目の色を変えるのがあほらしいような気がしてきた』(マツタケと石の蛭川村
「鉄道は絶対に制限速度を超えた運転はしない。しかるに車は野放しだ。だから殺人を犯すのだ」(北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線

 個人的には昨年三次の鵜飼を見に行ったので「鵜飼と南無阿弥陀仏」が一番実感をもって読めた。鵜飼はともすれば川の光景に目が行くがこの三次の鵜飼では間近に鵜匠の手綱さばきが見られるのでその記述も生き生きしている。またいきたくなった。