「いい加減」という言葉

「いい加減」というのはおもしろい言葉である。将軍は元来諸事に「こだわる」性質ではなく大雑把に済ませて事足れりとしてきた。またどうも「がんばる」という言葉が好きになれずそこそこ遅れをとらぬ程度に生き抜いてきた。それらをもって人は「いい加減」な奴と評を下す。自分自身もそう思う。

でもどうして日本語では「いい加減」というのは良い意味に使われないのであろうか?「いい加減」というのを文字通りに解釈すれば程よいとか適度といった意味であり、悪いはずがない。ところが日常いい加減というと無責任な態度や行動をさしている。

「いい加減」な奴だって自分自身の行動について否定的には思ってはいない。そんなにこだわらず頑張らなくても自分自身の身の丈にあった結果が得られればそれでいいと納得するのだ。ところがそこにこだわり頑張る奴が出てくると最高の結果をとことん追求していく。第三者は当然最高の結果を出したものに大きい評価を下す。「いい加減」な奴は世間で認められない。

貨幣経済と競争社会が高度に発展した今の日本で人に認められるには「こだわり」と「頑張り」によって他人以上の結果を出さざるを得ない。本来悪くはないはずの適度の無理のない「いい加減さ」が怠惰の代名詞のように見えてしまうのだ。

日本は猛烈な頑張りで突っ走って世界のトップ集団に並んだ。しかしこの後トップ集団をもブッちぎって独走すればいいのだろうか。それで集団の他のメンバーから尊敬されるだろうか? 日本一国が世界から資源を買いまくって世界中に日本製の自動車や電気製品が出回ったら世界全体が裕福になるだろうか。そうではない。政治、経済、産業、環境どれをとっても地球規模の協調が求められるのだ。

世界各国で人と大地との程よく無理ないかかわりの中で守られてきた自然がある。それは自然に対してこだわったり頑張ったりしない「いい加減さ」が調和を保ち、実はそのことによって人類は守られてきたのだ。そう思えば、日本人も今「いい加減」という性格にもっと寛容になってもいいのではないか?