海を渡った古伊万里展  ~セラミックロード~

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  JR京都伊勢丹内 美術館「えき」KYOTOで1月23日まで開催

 

17世紀の大航海時代といわれた時期の後半オランダが台頭してきて東インド会社(V.O.C)という国策の会社組織を起こして世界各地に大規模な交易を広げていった。彼らは長崎にも商館を作りそれを拠点に日本の物産を積み込んでいくつかの中継地を経てヨーロッパへと運んでいった。それらの中には有田で焼かれた磁器も大量にあった。かの地ではイマリの名で珍重された。
もともと秀吉が朝鮮出兵のときに日本へ連れてきた陶工が有田で磁器に好適な土を見つけて焼き始めたことからわが国での生産が始まった。(決して拉致ではなく迎え入れたのである) その作品は地元大名の目に留まり好んで使用され各地に広まった。それがさらにオランダ人にも見出された。陶磁器生産の本場はなんと言っても中国だがこの時期中国で内乱が起こって国外への輸出が停止されたためその代わりを探していたのである。またインドやアラブアフリカとの交易によってヨーロッパでコーヒーや茶が飲まれるようになりその容器が求められていた。それらの食器で喫茶することがステータスとなっていたのである。かくて長崎に近い有田の焼き物が注目され大量の発注を受けてその品数300万個と言われる量が海を渡っていった。生産品はオランダ本国はもとより周辺国であるドイツ、イギリス、また貿易の中継地だったインドネシア南アフリカにももたらされた。今日それらの所蔵品が買い戻され佐賀県立九州陶磁文化館に所蔵されている。里帰りした名品を中心に約150点が今回展示されている。

 

初期のものは草花を描いた染付けのものが中心だが、後年柿右衛門により色絵ができるようになると金襴手と呼ばれる鮮やかな彩色のものが多く焼かれるようになった。花鳥文や牡丹文などの色合いはいかにもヨーロッパ貴族の好みそうな出来である。彩色や図柄だけでなく形もたとえば碗に把手をつけたり水注に蛇口をつけるなど西洋文化になじみやすいようなデザインになっていて一見してこれが日本で作られたとはちょっと意外に思えてしまう。陶工たちはこれを作りながら遠い国の文化を羨望の目で見ていたのかもしれない。ただ多かれ少なかれ中国磁器の影響を受けていることは西洋人から見て日本と中国の見分けを付けにくくする原因のひとつとなった点もあろうが、その昔からMADE IN JAPANはかの地で高級ブランドだったのだ。

 

2011.1.16観覧