京都 旧新洞学区

京都市内には観光地として有名な寺院が多く毎日大勢の観光客でにぎわっているが、京都の寺といえばそれだけではない。観光地から少し外れた地区でもよく目を見張ると観光地とは一味違った静かで落ち着いた風情を見出すことができる。これから記す場所もそういった地区の一つである。

 

京阪三条駅からほど近い左京区旧新洞小学校の学区は南北は二条通三条通、東西は川端通東大路通に囲まれた区域であるがここに55もの寺院が集まっている。
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頂妙寺前にある町内案内板
大小様々なお寺が並んでいることが伺えるがそれとともに目を引くのが通りの名前である。市内中心部にある通の名前に「新」の字を冠したものばかりである。これには何かいわれがありそうだ。

 

鴨川東に位置するこの地区は元来「川東」と呼ばれ今もある頂妙寺と法林寺という二つの大きなお寺だけしかなかった。ところが1708年徳川綱吉の治世のとき京都では「宝永の大火」という大火事が発生して市内を焼き尽くした。災害は御所や公家の居住地までおよび御殿や屋敷が燃えた。とはいえ御所南側になる丸太町一帯には公家屋敷や一般民家や寺院が混在していたので復興の際この地を公家専用地としてその他の住民は移住させられることになった。そこで目をつけられたのが難を逃れられた川東だった。一帯に住んでいた町人や寺がこぞって移住してきた。それまでの居住に面していた通りに従って「新」のついた同名の通りに割り当てられた(例、丸太町通に面して住んでいた人は新丸太町通にという具合に)。こうして旧市街にある通の名前に新のついた通りが一ときにできたのである。
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旧市街では東から順に麩屋町富小路柳馬場、堺町、高倉と並ぶのだがここではその順序が東西逆になっている。その続きになる間之町東洞院車屋町仁王門通りを隔てて先の通りの北側に位置する。これ等の東西順は旧市街と一緒である。また丸太町は東西の通りだが新丸太町は南北の通りとしてほかの通りと揃えて並べられている。おそらく丸太町から順に東へさらに北側を順に西へと割り振っていったのだろう。
ただし寺院の場所は集約され区域の東側に集められそこにある通りが西寺町通と名付けられた。本来の寺町通より東にあってなぜ「西」がつくのかはわからないが、この東側にある南禅寺知恩院建仁寺などの有力寺院に敬意を表したのだろうか?
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この区域の中心にあった新洞小学校は市内の他に先んじて明治2年に作られた由緒あるものだったが生徒数減少により3年前隣接学区に併合され閉校となった。しかし学校施設は地域住民の集まりの場として今も残っている。
なお現丸太町通の円町以西は一般に「新丸太町通」と称されるが本記事の新丸太町通とは無関係である。

 

アクセスもよく訪問しやすい場所にありながら行ってみるとその清閑さは意外だろう。とくに観光目的の商業施設はないが寺院の他古い町屋や懐かしさを感じる個人商店も見られ、これこそがオールド京都の風情と感じいることであろう。