柳宗悦の民藝と巨匠たち展へ行って

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きょう京都文化博物館で開催中の同展を見に行った。柳宗悦(1889~1961)は民藝運動創始者として知られ、それまで芸術や美術の対象となりえなかった無名の職工たちが作った生活民具の中に美の存在を見出した。陶芸だけでなく漆器、絵画、家具、仏像、染物および着物など幅広い分野において興味を示し自ら膨大な蒐集を行った。それらは日本民藝館の創設により公開され今に残されている。また民藝運動に共鳴したアーティストたちとの親交を通して民藝というジャンルの創作活動を具現化させ世の人たちへの理解を広め、それは倉敷紡績の大原孫三郎らの支援者を得た。

 

バロックとかロココあるいは印象派という言葉は絵画、美術、建築、音楽など幅広い分野の創作活動を包含している。これと同じように民藝も様々な分野にわたることは上記の通りである。私としてはその中で理解しうる陶磁器に関して取り上げたい。この方面で柳の何よりの功績はそれまで見向きもされなかった李朝の陶磁器を美術品として見直したことであろう。中国のもののように華麗で派手なところはないが作り手の心意気が伝わるような造形、質感、絵付けはじっくりと見ればひきつけられる。ただそれらがすべて元から民具・雑器の扱いしか受けていなかったとは思えない。例えば染付けの文が入っているもの。元来朝鮮では染付けの原料である呉須(コバルト)は貴重品で中国から輸入するしかなかった。また瓢形瓶というのは実用的な形態とはいえまい。貴重品を変わった形の陶磁器に絵を入れるために使うというのは上層の人の遊び心であり贅沢であろう。実際李朝時代存在した分院里窯では王族・貴族から受けた注文品ばかり焼いていたのだ。それらの品は日常使われるものではなく彼らの屋敷の装飾品とされたのだ。だから美術品としての扱いを受ける必然はあった。それを柳の前に気付く者がいなかったのはこの時期朝鮮が文化のエアポケットだったからといえる。西洋人の中で東洋陶磁への関心は中国・日本に向けられており朝鮮の存在は知られてなかった。日清日露戦争を経て日韓併合にいたるまで朝鮮は大国の干渉を受け国内は不安定で外国人が立ち入る余地はなかった。是非はともかく併合後国土は安定し外地からの往来も増えてから朝鮮古来の文化が知られるようになるのである。柳は浅川伯教という者の招きにより朝鮮に渡るのであるが、柳ならずともそこに人跡未踏の宝の山を見出したであろう。もちろん幼若のころより審美眼を養ってきた柳によってこそ美術と認められたのは疑念を呈する点はない。会場内に柳の写った写真が掲げられていたが、彼の着ているものが大正・昭和の頃としては、否今着たとしてもなんら可笑しくないモダンな仕立てであることに気付く。チラシに写る瓶を手にした柳の写真を見るがよい。素敵なジャケットである。私もこんなのを欲しいと思ったほどである。これを見て思う。朝鮮陶磁の美を見出したのは粋を身に付け洒脱を解した柳その人の奥深い観察力と遊び心ではないかと。

 

①展覧会チラシ。柳の写真にご注目を!
李朝染付草花文瓢形瓶。もともと瓢形だったのであるが上部が欠損していたのであろうか。柳の手元になってから上部を切り取ったという。それでも気品を感じるのは無為によるものではなく使う人のためを思って作られたからだと私は思うのだが…。