2005-01-01から1年間の記事一覧

別府鉄道野口線

別府鉄道は旧国鉄高砂線野口からと山陽本線土山からそれぞれ別府港に向かう野口線、土山線からなる兵庫県の小私鉄であった。一般客も乗車できたが別府港にある多木化学の工場への専用線の性格が強かった。だから輸送は当然貨物主体だったのだが国鉄末期の貨…

ポールのコンサート回想

何を隠そう高校生以来のビートルズファンである。しかしファンになったときには彼らはもう解散していた。ジョンやジョージ亡き今四人がこの世で揃うことはもう望むべくもないが、残ったメンバー一人でも生で見てみたいと思っていた。 3年前のきょう11月1…

1984/和歌山紀行番外編

御坊で降りて日の岬灯台までいったが、その近くに小さな動物園があった。その中に一つの檻の中にワラピーと鶏が一緒にいた。珍しい取り合わせだが、なんで一緒なのかわからずシュールな動物園だと思った。ワラっトリます! このシリーズこれで終わりです。ニ…

1984/和歌山紀行その4・南海直通急行用キハ55

かつては小田急、名鉄といった大手電気鉄道が国鉄線に乗り入れるために自前の気動車を所有していた。有田鉄道キハ58の前所有者だった富士急行にしても当時未電化区間の残っていた中央東線に乗り入れるためにわざわざ気動車を作ったのである。そして大手に…

小春日和に

お寺の片隅の墓地で見かけたネコ。墓石を寝床にひなたぼっこ。ニャンまいだ~。

1984/和歌山紀行その3・有田鉄道

紀勢線で藤並まで乗って有田鉄道訪問。ここも3年前の大晦日をもって廃線となったが末期は気息奄奄でほとんどが代行バスになり鉄道運行は一日2往復だけ、それも日祝日は運休と見るも哀れな状態だった。訪れたときはまだそんなことはなく一日十数往復毎日走…

1984/和歌山紀行その2・紀州鉄道続編

西御坊から乗車。西御坊という駅名だが、御坊市の西側という意味ではなく、西本願寺日高別院の最寄という意味である。そもそも御坊という地名がこのお寺に由来した名前であり御坊市全体がひとつの門前町なのである。2駅目の紀伊御坊で下車。同線の中心的存在…

秋の色

京都の紅葉、今年は例年より遅いと言われていましたがここ東福寺はここまで色づきました。有名な通天橋を西側から見たところです。もう少しです。来週には見ごろでしょう。ただしご忠告しておきますがこの東山一帯へお車でおいでになるのは控えたほうがよい…

1984/和歌山紀行その2・紀州鉄道日高川駅

その日のうちに海南から御坊まで行き、日の岬など見て回って投宿。翌日宿の最寄り駅市役所前から紀州鉄道日高川行きに乗る。たったの2駅あっという間に着いた。かつて当鉄道は御坊臨港鉄道という名称で、川を船で下ってきた農産物や木材あるいは織物などを…

1984/和歌山紀行その1・野上電鉄

① ② 以前アップした記事で1984年8月廃止直前の急行「紀ノ川」に乗ったことを記したが、その後南へ足を伸ばして和歌山県下の小私鉄を探訪している。その時の写真をご覧に入れる。まずは海南まで行き野上電鉄に乗りに行った。国鉄海南駅を出て和歌山方向…

少年ジャンプ1990年第45号

私にとってはそんなに古い本でもないし、これが出たときには少年どころかもうおじさんと呼ばれてもおかしくない歳にはなっていたので内容について強い興味があるわけでもない。ある一点を除けば普通の少年雑誌である。当時働いていた職場で閲覧用に毎号購買…

近鉄東信貴鋼索線

近鉄 現在近鉄で信貴山へ行こうとすれば河内山本-(信貴線)→信貴山口-(西信貴鋼索線)→高安山-(バス)→山門前というルートだけだがかつてはもうひとつ生駒線の信貴山下から東信貴鋼索線で上がるルートもあった。大阪方面からだと回り道で敬遠され昭和58…

青磁鳳凰耳瓶ではないか!?

きのう行ったお寺の庭の一角に祠があって、ふと目をやると宋の竜泉窯のものと思えるような青磁の瓶が何気においてあるではないか。が、色合いがきれい過ぎるか。この手のものは複製品が数多く作られているしまあ本物ではあるまいな。たとえ複製でもよく出来…

30年前の写真その5・近鉄南大阪線

河内長野からは近鉄に乗った。南海の駅に比べると近鉄の駅はこじんまりしている。そこから阿部野橋行き準急に乗る。準急といっても藤井寺までは各駅停車。道明寺で降りる。もうこのころには南大阪線の急行以下の旅客運転は6000系などの4扉新性能車に揃…

30年前の写真その4・南海河内長野

前回の阪堺線を見た後高野線で河内長野まで乗っている。河内長野で電車を降りた瞬間ひやっと感じたのを覚えている。同じ大阪府でも大阪市よりは気温が低い。名前のごとく河内でありながら長野県のような涼しさ。しばらくホームに立っていて程なく向こうから…

30年前の写真その3・南海大阪軌道線

この路面電車、現在は阪堺電軌という独立した社名を名乗っているが当時は南海電鉄の一路線で上記のような名称だった。とはいっても最初から他線とは軌間も車輌規格も違って独立した路線だった。以前ここで平野線の記事を載せているが今回は阪堺線・上町線の…

30年前の写真その2・阪和線

30年前阪和線に天王寺~和歌山間鳳のみ停車の新快速が走っていてそれは113系が使われていたが、それ以外のほとんどの電車はまだ旧型国電だった。新快速の一つ格下の快速はスカ色70系、そのまた下はオレンジ色の60系73系といったいわゆるゲタ電だ…

30年前の写真・その1

30年前の1975年10月から11月にかけて撮った写真をいくつか出させていただきます。ただし画像をデジタル化できずスキャンしたもので不鮮明であり、写真そのものの腕も未熟なため見苦しい点もありますがご寛容ください。まず最初は国鉄時代の信楽線信楽駅に停…

東寺五重塔

一昨日29日から来月7日まで京都にあるいくつかの寺院で非公開文化財特別拝観というのをやっており普段見られない文化財に立ち入ることが出来る。東寺の五重塔もこの時期中に入れるというので昨日行ってきた。ただし入れるのは一階部分だけで階上には行けなか…

カムイ伝

この漫画少し重いテーマなので何を書くべきか迷うところであるが、私個人の社会概念の形成に少なからぬ位置をしめる書であったので取り上げて起きたいと思う。忍者を主題とした漫画も数あるがともすれば忍術の技巧と戦闘に主眼が置かれて、忍者の発生由来、…

京阪宇治行急行

けいはんでんてつ 京阪で急行といえばいまや朝夕数本あるに過ぎないが、かつては沿線乗客の主たる足として一日中数多く運行されていた。その中には変り種もあって夕方のラッシュ時には三条発宇治行き急行というのもあった。宇治線入線のため急行ながら5連の…

出番ですよ 叡電600

叡山電鉄600形。相次ぐ新型車の投入で旧型車はほとんど置き換えられたが、最後に残ったのがこの603+604の2連である。今も車籍は残っているが、日常はほとんど稼動することがなくて修学院車庫の片隅で眠っている。しかし年に一度動いて脚光を浴び…

日野ルノー

街で古い車を見かけると思わずカメラを向けてしまう。この車も全く偶然見つけた。この車を見かけたのはもうずいぶん前のこと。そのときでもかなり古めかしく思えた。しかしオーナーはよく手入れしているのだろう。車体の光沢は失われてない。ごっついタイヤ…

奈良県に走ったもう一つの急行

今でこそ奈良県に走るJRの優等列車は「かすが」だけでそれも奈良県内はほんの少しだけしか通らない。しかし昭和59年9月まではもう一つの急行「紀ノ川」があった。これは一日1往復、京都から奈良線、桜井線、和歌山線を経て和歌山に至るルートを走った気…

金かえせっ! 実録 ネット詐欺との死闘

中島慎一著、BananaRun構成・文 宝島社発行私が今書いているこのブログはYAHOOのもので、私もYAHOOの便利性を享受している一人である。様々なサービスを利用すると家にいながら様々な人と出会えるのが生活の楽しみにすらなっている。その中で善良な出会いや…

キハ58系急行かすが

いまや希少種となった58系DCだが、国鉄時代急行列車があまた走っていた頃は全国通津浦々で見られた。関西線唯一の急行「かすが」も比較的最近まで58系だった。しかし後年にはJR東海色の58系2連が使われていた。が、秋の行楽期で多客時には増結された。その増…

山陽電鉄西代駅

YESかNOか?「始発駅を止まらない電車がある」⇒答えはYES。兵庫県の山陽電鉄の特急は同社の始発駅・西代を通過し他社線に乗り入れる。始発駅といっても山陽電鉄の場合、そこで途切れているわけではなく神戸高速鉄道と線路がつながっている。西代駅は普通しか…

地上駅時代の京阪四条駅と1300系

昭和58年12月京阪線は架線電圧が1500Vに昇圧された。それによりこのときかなりの数の車両が入れ替わった。600、1300、1700といった吊り掛け駆動の旧型車がいっせいに廃車となった。1300は戦後統制経済のもと運輸省規格型として作られたもので内装が木製…

京都市内地上線時代の京阪

今は地下線となった京阪三条~七条間は昭和62年までは鴨川と疏水の二つの川にはさまれたところを走ってました。車窓からは季節季節の移り変わりを楽しめていいものでした。当時鉄ちゃんはこの区間で何度も撮影したものです。私もその一人です。その頃買った…

所持品、刷毛目鉄絵俵壷

蒐集駆け出しで眼力もなかった頃買った物。今なら買わないという見本。恥をしのんでお見せします。ひなびた店にぽつんと置いてあって思わず目が行った。なんだか鶏龍山のものに似ている。店主に聞いたら李朝のものだという。値段も引いてくれると言う。こり…